Pink Floyd The Wall [CD]
ピンク・フロイドのアルバム「ザ・ウォール」は79年にリリースされた。時代はパンク、ニュー・ウエイブ期になっていてプログレッシブロックはトレンドからははずれ、「オールド・ウェイヴ」と称され、時代遅れになっていた。しかしその中で2枚組という重量級のアルバムを作り、全英3位・全米1位を記録し、全世界で3,000万枚以上売り上げるメガヒットとなり、ピンク・フロイドの底力を見せつけた。ロック・スターと思われる主人公ピンクの人生がストーリー形式で進行していき、そこから人間心理を描き出すという手法を取ったコンセプト・アルバムである。ピンクの人生の過程の中で感じる、学校教育や社会の中での抑圧・疎外感を「壁」に例えている。アルバム『狂気』と同様に基本的にすべての楽曲が繋がっており、2枚組全曲を通してひとつのストーリーになっている。リーダーのロジャー・ウォーターズがほとんどの楽曲を一人で書き下ろし、アルバムのレコーディングにはバンドのメンバー以外に多くのスタジオ・ミュージシャンが参加している。プロデュースもボブ・エズリンとの共同である。
「In The Flesh?」
「Another Brick In The Wall, Part Two」
「Mother」
「Comfortably Numb」
「Run Like Hell」
「The Trial」
Peter Gabriel [CD]
ピーター・ガブリエルによるデビュー・スタジオ・アルバムは77年にリリースされ、このアルバムは後に「Peter Gabriel I」または「Car」として知られるようになり、ヒプノシスがプロデュースしたアルバムのアートワークにちなんで名付けられた。75年にプログレッシブ・ロック・バンドのジェネシスからの脱退が公表された後、ガブリエルは家庭生活に集中するために休暇を取り、翌年からソロ・アルバムのために曲を書き始める。芝居の様なヴォーカルと曲の構成を得意としていたピーター・ガブリエルはトッド・ラングレンやジャック・ニッチェなど、何人かのプロデューサーを検討し、プロデューサーにドラマチックなは音作りを特長とするボブ・エズリンを起用し、オーケストラを導入したアルバムとなった。さらにピーター・ガブリエルはギタリストのロバート・フリップやベーシストのトニー・レヴィンなど、アルバムで演奏するために何人かのミュージシャンを追加で招集した。それは当時の最新のニュー・ウエイブ・サウンドに対応するためでもあった。強力な脇役陣が揃った素晴らしいアルバムであったが、偉大なアルバムにまみれた1年で、過小評価された作品となってしまった。
「Moribund The Burgermeister」
「Solsbury Hill」
「Humdrum」
「Slowburn」
Lou Reed Berlin [CD]
「ベルリン」は、ルー・リードが73年にリリースした3作目のソロ・アルバム。プロデュースは、当時既にアリス・クーパーとの仕事で知られていたボブ・エズリンが担当し、エズリンはアラン・マクミランとともに編曲も担当した。主人公のジムと娼婦キャロラインを軸としたストーリーを持つコンセプト・アルバムとなっていて、DV、うつ病、自殺、子別れと辛いテーマが並ぶが、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの時代から前衛性とポップさを兼ね備えたルー・リードならではの曲作りは素晴らしい仕上がりとなり、本作が発表されると、リードの母国アメリカよりもイギリスで大きな成功を収め、全英アルバムチャートではリードにとって初のトップ10入りを果たした。このコンセプトは、プロデューサーのボブ・エズリンがリードに、リードの曲が語る物語には素晴らしい始まりがあるが、実際には終わりがないと言ったことから生まれた。
「Lady Day」
「Caroline Says I」
「How Do You Think It Feels」
「Caroline Says II」
Queen Sheer Heart Attack [CD]
「シアー・ハート・アタック」は、クイーンの3枚目のアルバムで、74年にリリースされた。初期2作と異なり、本作はトライデント・スタジオのほか、AIR、ロックフィールド・スタジオ、ウェセックス・サウンド・スタジオの4つのスタジオで作業が行なわれた、ギターのブライアン・メイの体調不良により、メイの回復までの間、ライアン・メイのギターソロを入れる余地を残す方でレコーディングを続け、復帰後にギター・パートとボーカル・パートが追加することで完成させた。ファースト・アルバムではレッド・ツェッペリンの後継者とも言われたが、そこまでのヒットにはつながりませんでした。セカンド・アルバムでは、ギタリストのブライアン・メイ中心の「サイドホワイト」と、ヴォーカルのフレディ・マーキュリー作の曲のみの「サイドブラック」の2つに分けるという形式がとられ、このコンセプトが受けてヒットし、同時にファースト・アルバムもヒット・チャートに上がることとなった作品でした。続く本作は、さらにバラエティに富んだアルバムとなり、プログレッシブなテーマから脱線し、このアルバムはよりポップ中心の特徴とし、オペラ的なコーラス・アレンジのクイーンサウンドへの一歩を踏み出し、ビートルズとも比較されるアルバムとなりました。本国イギリス、日本についで、大国アメリカへと人気が広がったアルバムでもありました。
「Killer Queen」
「Now I'm Here」
「Dear Friends」
「In The Lap Of The Gods... Revisited 」
Crosby,Stills,Nash&Young Deja Vu [CD]
「デジャ・ヴ」は、クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングが70年に発表したファースト・アルバム。クロスビー、スティルス&ナッシュのデビュー・アルバム「クロスビー、スティルス&ナッシュ」が発売されたのち、コンサートでのサウンド強化のためにスティーヴン・スティルスのバッファロー・スプリングフィールド時代の同僚であるニール・ヤングがメンバーとして招聘される。ヤングの参加により、各人の自己主張が激しくなり、アルバム「デジャ・ヴ」は多彩なサウンドに仕上がっている。サンフランシスコとロサンゼルスにあるウォーリー・ハイダー・スタジオで制作され、60年代の理想郷であったウッドストックに出演し、その世代の象徴として歌い、夢を語り、理不尽に怒り、その時代を奏でたアルバムとなった。バンド名通りバンドの4人のメンバー全員でプロデュースをし、もちろん誰がリーダーでもなく民主制を徹底したバンドだった。レコーディングは各メンバーによる個別のセッションとして録音され、それぞれが合意できるものは何でも提供したといわれている。
「Carry On」
「Woodstock」
「Deja Vu」
「Our House」
「Everybody I Love You 」
ガロ GARO2 [CD]
ガロ (GARO) は堀内護(MARK(マーク)日高富明(TOMMY(トミー)大野真澄(VOCAL(ボーカル)の3人が70年に結成した、フォーク・ロック・グループ。元々はCSN&Yのコピーバンドとしてスタートし、CSN&Yやブレッドの影響下にあったバンドであり、それらのグループの楽曲もレパートリーに加えていたこともあり、卓越したコーラスワークとギターテクニックにより「和製CSN&Y」と称された。セカンド・アルバム「GARO2」は72年にリリースされ、プロデューサーにはミッキー・カーティスが担当し、シングル「美しすぎて」のB面「学生街の喫茶店」が大ヒットする、アルバムA面はオリジナル曲をB面はビートルズなどの英語曲を日本語に直しカヴァー、3人の個性と時代を反映した叙情性などがせめぎ合った作品となった。この後はソフト・ロックという要素を加えていくが、ハード・ロック的なアプローチをしたこともあり、ロックバンドとしても再評価されている。高橋幸宏(dr)と小原礼(b)はガロのサポートメンバーとして初期から加わるが、「学生街の喫茶店」ヒット以後の歌謡曲路線に合わず脱退、サディスティック・ミカ・バンドに加入する。
「美しすぎて」
「学生街の喫茶店」
「Let it be」
「Because」
なぎら健壱 葛飾にバッタを見た [CD]
なぎら 健壱は東京都中央区銀座の生まれで小学校3年のときに葛飾区金町に転居、下町を愛するシンガーソングライターである。高石友也に感化され、五つの赤い風船の西岡たかしや、高田渡に影響を受ける。アングラフォークに目覚め72年にアルバム「万年床」でアルバム・デビューする。なぎら健壱の名前を全国に轟かせたのが74年にリリースしたシングル「悲惨な戦い」だった。フィクションにもかかわらず実話と聴き手は錯覚してしまうほどよく出来ており、日本相撲協会が「国技をなめているのか」とカンカンに怒り、この影響か不明ではあるが、放送禁止歌になり、ラジオやテレビから締め出された。この曲が入ったアルバム「葛飾にバッタを見た」は10年以上のたった87年になって再リリースされることとなる。カントリー・サウンドに下町情緒が溶け合うサウンドに、抱腹絶倒の「悲惨な戦い」は、なぎら健壱の代表的歌唱スタイルであったトーキング・スタイルの曲で、初期はもっとメロディがあったが、時を経るごとに歌詞・内容が変わり、トーキングとなっていったらしい。
「悲惨な戦い」
「葛飾にバッタを見た」
「昭和の銀次」
おまけで「いっぽんでもニンジン」日本で一番売れた曲の「およげたいやきくん」のB面で、どうせ売れないと思い、なぎら健壱は数万円で歌唱を受けてしまい、莫大な印税が入らず後悔する事となる曲。
泉谷しげる 黄金狂時代 [CD]
「黄金狂時代」は、泉谷しげるの通算5枚目、スタジオ・アルバムとしては4枚目のアルバムである。このアルバムでは、当時の泉谷をサポートしていたふたつのバンドの演奏が聴かれる。「眠れない夜」、「火の鳥」、「Dのロック」の3曲では、ジョニー吉長が在籍していたイエローが演奏している。それ以外のトラックは、杉田二郎、アグネス・チャンなどのバックも演奏していた、徳武弘文(g)や島村英二(dr)が在籍していたラストショウが演奏している。セカンドアルバム「春・夏・秋・冬」を加藤和彦がプロデュースを務め、そしてサード・アルバム「光と影」は、サディスティック・ミカ・バンドとして活動していた加藤和彦、高中正義、小原礼、高橋幸宏といった面々や、中川イサト、生田敬太郎らが参加、当時こんなにバラエティー豊かなフォークソングのアルバムは無かった。続く本作ではイエロー 、ラストショウを従えロック色を打ち出し、初期の代表曲のひとつとなった「眠れない夜」や、まさにフォーク・ロックと呼びたくなる「Dのロック」など、充実した曲が詰めこまれている。70年代初頭の日本語のロックとして、もっと評価されるべきアルバムで、泉谷しげるの代表作のアルバムになった。
「眠れない夜」
「遥かなる人」
「Dのロック」
「北の詩人 」
吉田拓郎 元気です。 [CD]
「元気です。」は、72年に吉田拓郎がリリースしたオリジナル・アルバム。エレック・レコードからCBSソニーに移籍し、リリースしたシングル「結婚しようよ」の大ヒットフォーク・シーンに留まる事のない人気を博した吉田拓郎。本作は「結婚しようよ」が入っていないにもかかわらず、14週連続で一位を獲得、吉田拓郎のアルバムとしては最高のセールスを記録している。「旅の宿」のアルバム・バージョンやロックバンドのザ・モップスへ提供した楽曲「たどり着いたらいつも雨降り」などを収録、どこを切り取っても“時代の顔”としての自信と気概にあふれた名曲が並んでいる。日本のフォークシーンに輝く名盤で、今の音楽シーンで活躍する様々なミュージシャンが影響を受けたアルバムの1つである。
「春だったね」
「たどり着いたらいつも雨降り」
「こっちを向いてくれ」
「また会おう」
「旅の宿」アコースティック・ギターとハーモニカのみのアルバムバージョン
Tulip Take Off [CD]
「テイク オフ」は、チューリップの通算3枚目のアルバム、74年にリリースされた。「心の旅」のヒットによりブレイクを果たした後に発表した最初のアルバムである。アイドル的な人気を得た一方で、ビートルズのような音楽を作りたいという変わらない思いを表現すべく制作され、アメリカのロサンゼルスにあるサンセットスタジオでレコーディングされた。チューリップにおいても日本のポップス界においても重要な意味をもった一枚で、76年度のミュージック・ライフ誌での国内ベスト・アルバムに選出されている。ヒット・シングル「銀の指輪」「夏のおもいで」を入れず、男の大きさと優しさゆえの強さを表現したコンセプト・アルバムとなった。名曲「青春の影」は当時アルバムの一曲として制作されたが、その後、シングル・カットされる。
「明日の風」
「そんな時」
「おしえておくれ」
「青春の影」
「笑顔をみせて」
おまけでシングルの「銀の指輪」アルバムと同じくロサンゼルスにあるサンセットスタジオでレコーディングされた。