Joe Cocker Luxury You Can Afford [CD]
イギリス出身のジョー・コッカーの人気を決定づけたのはウッドストック・フェスティバルに出演した事は有名な話、その後レオン・ラッセルが仕掛け人となり、マッド・ドッグス&イングリッシュメン・ツアーは話題となったが商業的には成功に至らなかった、このツアーに収録されているリタ・クーリッジが唄う「スーパースター」は、後にベット・ミドラーやカーペンターズに歌い継がれている。74年にようやく「ユー・アー・ソー・ビューティフル」でフル・アルバムを制作、アルバムからのシングルでビリー・プレストンのカバー「ユー・アー・ソー・ビューティフル」がビルボードのヒット・チャートで5位になりシンガーとしてのキャリアを高めて行く。長年の薬物中毒とアルコール依存でコンスタントにアルバムは出せてはいないが、78年にリリースした「 Luxury You Can Afford (青い影)」は2年ぶりのアルバムでA&Mからアサイラムに移籍しての第一作、プロデューサーはニューオリンズで最も有名なアラン・トゥーサン、バックのミュージシャンもスタッフのメンバーとダニー・ハサウェイ、ビリー・プレストン、ドクター・ジョンにマッスル・ショールズ・ホーン・セクションなど、まさにサザン・ソウル・サウンド、南部の香りに乗ったジョー・コッカーのパワフルにシャウトするヴォーカルと泣きの効いたバラードが聴けるアルバム。一番の聴きどころはプロコル・ハルムのカヴァー「A Whiter Shade of Pale(青い影)」。ジェニファー・ウォーンズとデュエットした映画「愛と青春の旅だち」の主題歌「愛と青春の旅だち (Up Where We Belong)」が全米1位のヒットを記録するのは4年後の事である。
「Fun Time」
「A Whiter Shade of Pale」
「What You Did to Me Last Night」
「Lady Put the Light Out」
Cheryl Lynn [CD]
シェリル・リンは当時アメリカでの名物オーディション番組『THE GONG SHOW 』に出演し、予選を勝ち抜き、本選で見事満点を獲得、司会のチャック・ノリスは「これまでに4000人以上の出演者を見てきたがシェリルがベスト」と言っている(偶然、当時の東京12チャンネルで放送していたのを見ていてアメリカではアマチュアでもこんなに上手い人がゴロゴロいるのかと思ったのを思い出します)これをきっかけにCBSソニーと契約し、1978年にデビューし、本作を制作、デヴィッド・ペイチとデヴィッド・フォスターがプロデュースしたデビュー曲の「Got To Be Real」は当時のディスコブームに乗ってヒットを記録した。デヴィッド・ペイチやレイ・パーカーJrなどの素晴らしいミュージシャンの演奏を見ながら約1年半をかけてレコーディング、ミュージシャン達を身近で見た事によるインスピレーションを得られながら歌えた事や、一緒にデヴィッド・ペイチと「Got To Be Real」の作詞を共作をし「Give My Love To You」をレイ・パーカーJrと曲を共作し、シェリル・リンらしさに磨きをかけていく。この時代らしいバンド全員とヴォーカルを一緒にレコーディングする形を取り、ほとんどの曲のヴォーカルはファースト・テイク(一回目の録音)で出来ていると聞き、驚愕、シェリル・リン自身の歌いたいという本物の思いと気持ちをそのまま映し出し、出来上がったのがシェリル・リンのデビュー・アルバムである。
「Got To Be Real」
「Come In From The Rain」
「Give My Love To You」
「You're The One」
Turley Richards Therfu [CD]
ターリー・リチャーズはウエスト・バージニア州出身のシンガーソングライターでギタリストである。4歳の時にアーチェリーの矢による事故で左目を失明してしまい、ほどなくして右目も極度の視力低下に陥る、という苦難を味わう。60年代に入るとロスに渡ってバンド活動を始める、しかし全く成功せず、すぐにウエスト・バージニアに帰り、その後ニューヨークに移り住んでデビューのきっかけをつかみ、70年にはワーナーと契約しアルバム「Turley Richards」でデビュー。何枚かアルバムをリリースするも、マイナーなヒットで終わってしまう。79年にアトランティックからリリースした4枚目のアルバム「Therfu」はミック・フリートウッドマックがエグゼティブ・プロデューサーとして関わり、バック・ミュージシャンとしてフリートウッド・マックのメンバーやボブ・ウェルチ、トム・スノウなどが参加。アルバム・ジャケットもリンジー・バッキンガムが手がけている。このアルバムではベン・E・キングの「Stand By Me」を取り上げているがドゥービー・ブラザーズみたいなアレンジで彼らしくて面白い、AOR/ブルー・アイド・ソウル・ファンのみならず、フリーソウル・ファンからも評価をされるソウルフルなヴォーカル・スタイルは素晴らしく心地良い。隠れた名盤でAORファンならたまらないアルバム。
「You Might Need Somebody」トム・スノウ作曲、全米チャート54位を記録するターリー・リチャーズの最大のヒット曲。ランディ・クロフォードのカヴァーで有名になった名曲のオリジナル・ヴァージョン。
「Stand By Me」
「I'm Comin' Back Home (With a Bit of Luck)」ターリー・リチャーズらしい曲で個人的に大好きな曲。
Paulinho Da Costa Happy People [CD]
パウリーニョ・ダ・コスタはブラジル、リオデジャネイロ出身のパーカッショニストでセルジオ・メンデス&ブラジル77のメンバーとしても知られ、世界的に名高いブラジルのパーカッショニスト。73年にアメリカに移ってからはカリフォルニア州ロサンゼルスを中心に活動、様々な分野で活躍、「ハッピー・ピープル」は79年にリリースされた彼のセカンド・アルバム、この頃には人気最高のパーカッショニストになっていて、その勢いが感じられるアルバムとなっている。EW&Fのフィリップ・ベイリーやこの後にシカゴに加入するビル・チャンプリンなどの4人のヴォーカルを迎えており、ファースト・アルバムが正当なラテン・パーカッションのアルバムだったのに比べ、全く違うポップ・センスの溢れる作品になっている、全体にソウルを中心にラテン的であったりAOR的であったりと、パーカッショニストのパウリーニョ・ダ・コスタの人間性と音楽性が出ているハッピーな仕上がりとなっている。
「Deja Vu」EW&Fのヴォーカル、フィリップ・ベイリーとギタリストのアル・マッケイが参加した曲で思いっきりEW&F調の作品。
「Carnival Of Colors」デボラ・トーマスのヴォーカルのラテン調の曲。
「Seeing Is Believing」ビル・チャンプリンのヴォーカルでAOR調の曲。
「Let's Get Together」カール・カーウェルのヴォーカルのファンキーなナンバー。
「Dreamflow」ラリー・カールトンのギーターによるインスト・ナンバー。
Flora Purim 500 Miles High [CD]
リターン・トゥ・フォーエバーに参加して世界的な知名度を得たブラジル人シンガーのフローラ・プリムが、74年にモントルージャズフェスティヴァルに出演した時の熱狂的なライブの模様を収めたアルバム「500 Miles High」は彼女の自由奔放な魅力を聴くことが出来るアルバムである。
透明感のある歌声、幅広い音域を駆使し、ブラジリアン・テイストの即興的なセンスを生かし自在な表現を聴かせたステージは盛り上がり、観客をエキサイトさせるものだった。
ここではデヴィッド・アロマ(g)パット・レビロット(key)ロン・カーター(b)のアメリカ人プレイヤーと、ワギネル・チゾ(key)ホベルチーニョ・シウヴァ(per)のブラジル人プレイヤーとフローラ・プリムの夫である世界的なブラジル人パーカショニストのアイアート・モレイラも参加し多彩なパーカッションを操っている。「Cravo E Canela」では作曲者で「ブラジルの声」の異名を持つミルトン・ナシメントも加わって歌とギターを聴かせてくれのも聴きどころの一つである。アルバム・タイトルの「500 Miles High」はチック・コリアの書いたナンバーで、フローラ・プリムも参加していたリターン・トゥ・フォーエバーの代表的なレパートリーの一つ、ここではより自由な表現で聴かせてくれている。「Uri (The Wind)」では抒情的に、フローラ・プリムの個性的な解釈で表現し、フローラ・プリムらしいカラーに塗り替えられたブラジリアン・ナンバーが聴けるアルバムとなっている。
「500 Miles High」
「Cravo E Canela」
「Uri (The Wind)」
Full Moon [CD]
72年にリリースされたアルバム「Full Moon」はニール・ラーセンとバジー・フェイトンを中心に作られたバンド「フル・ムーン」の幻の名盤で、このアルバムを残してバンド自体がすぐに消滅してしまった、その理由にバジー・フェイトンのヘロイン中毒があったようで、リハビリテーションのために彼は70年代の半分を棒に振る事になる、ジミ・ヘンドリックスのマネージャーだったアラン・ダグラスがアルバムのプロデューサーを務め、彼の思惑が大きく作用された、ブルースやソウルやジャズをダイナミックな演奏でミックスした演奏は当時の最先端のサウンドであった、当然プレス自体は少なかったが、オーリアンズのジョン・ホールやボズ・スキャグスなども大きく影響されたと発言している、日本でも山下達郎がバジー・フェイトンが一番好きなギタリストと言っている。レア中のレアのアルバムだったので20年以上探していたのですが見つからず、2000年にCDとなり再発されたときは嬉しかった。その後バジー・フェイトンは少し前に紹介したニール・ラーセンのソロ・アルバム「ジャングル・フィーバー」でカムバックし、2人は79年にラーセン=フェイトン・バンド名義でアルバムをリリース、81年に第二期フル・ムーンのアルバムを発表する。
「The Heavy Scuffle's On」バンド全員による共作、エッジの効いたリフがファンキーなナンバー。
「To Know」バジー・フェイトンの作曲、彼が在籍していた後期のラスカルズのようなブルー・アイド・ソウルのようなポップ・チューン。
「Malibu」ニール・ラーセン作曲のインスト、この頃にはソロ・アルバム「ジャングル・フィーバー」の音楽がほぼ確立されている。
「Need Your Love」バジー・フェイトンの作曲、バジー・フェイトンのリード・ボーカルが聴けるナンバー。
Patti Austin Havana Candy [CD]
パティ・オースティンは4歳にしてアポロ・シアターにてデビュー、ダイナ・ワシントンの前で「ティーチ・ミー・トゥナイト」を歌い「私はパティ・オースティン、歌手よ」と言ってのけた逸話は有名な話。またクインシー・ジョーンズとダイナ・ワシントンが洗礼時に代父母を務めた。 60年代後期にプロのセッション・ミュージシャンになり長い間の下積みを経て76年にCTIからデビュー、このアルバム「Havana Candy」は77年にCTIから出した第二作目でシンガーソングライターとしての実力を見せつけたアルバム。カリプソ・タッチの「Havana Candy」ロック調の「Golden Oldies」などデビュー・アルバムより幅広いジャンルの作曲にも挑戦し、バラエティー豊かなアルバムになっている。プロデュースはデイブ・グルージンとラリー・ローゼン、特にデイブ・グルージンは全曲をアレンジし、キーボードとしても参加、彼のサウンドの色が濃いアルバムでもある、派手ではなく大ヒットもしなかったが、胸ににジンとくる、パティ・オースティンの名盤である。彼女の作曲した4曲を選んでみました。
「Havana Candy」
「I Just Want To Know」
「Golden Oldies」
「We're In Love」
Robbie Dupree Street Corner Heroes [CD]
ロビー・デュプリーはニュー・ヨークのブルックリン生まれ、70年にはChic結成以前のナイル・ロジャースとブルース色の濃いバンドを組み活動、その後ニューヨーク州のウッドストックに移り住み活動、この頃にトッド・ラングレンやザ・バンドと親交を深め、数多くのミュージシャンと知り合っていく、この頃にクラッキンのメンバーとも知り合っていたと推測される、76年にロビー・デュプリーの作曲した「When You're Down」がアメリカン・ソングライティング・フェスティヴァルのR&B部門で最優秀賞を受賞し、彼にとって大きな自信となりソロ・シンガーとして身を固める為に78年にロサンゼルスに移り住み、旧友である元クラッキンのメンバー、リック・チュダコフとピーター・バネッタに協力を仰ぎファースト・アルバムをレコーディング、デビュー・シングルの「Steal Away」が大ヒットする、このセカンド・アルバム「Street Corner Heroes」もリック・チュダコフとピーター・バネッタがプロデュースを手がけ、先行シングル「Brooklyn Girls」がスマッシュヒットしている。元クラッキンのギタリストのブライアン・レイやヴォーカリストのレズリー・スミスとアルノ・ルーカスもコーラスとして参加、そして何と言ってもロビー・デュプリーの親友ビル・ラバウンティが作曲とコーラスで参加しているのが見逃せない、この後91年のビル・ラバウンティのアルバム「The Right Direction」はロビー・デュプリーがプロデュースを担当している関係からも、親友だということが良くわかる。
ニュー・ヨーク出身らしい都会的で洗練された雰囲気と哀愁を伴ったメロディに西海岸のサウンドを加えた楽曲は、80年代の良さを感じさせるものである。
「Street Corner Heroes」ロビー・デュプリーの作曲。
「All Night Long」ドゥーワップ・グループ、ザ・チェスメンのカヴァー。
「Brooklyn Girls」先行シングル、ビル・ラバウンティの作曲。
「Missin' You」ビル・ラバウンティの作曲。
Crackin' Special Touch [CD]
Crackin'は「西のタワー・オブ・パワー、東のクラッキン」と言われるファンキー&メロウなサウンドが持ち味のバンドで、70年代に活動した白人・黒人混成のグループ。メンバーには、後にセッション・シンガーとソロとしても活躍するレスリー・スミスや、売れっ子プロデューサー・チームとしてロビー・ビュプリー, スモーキー・ロビンソン, テンプテイション, ケニーG、ロビー・ビュプリーなどを手がけるクラッキンのリズム・セクションの2人のピーター・バネッタ&リック・チューダコフが在籍、また現在ポール・マッカートニーのバンドにいるギターのブライアン・レイ、そしてキーボードのレスター・アブラムスはドゥービー・ブラザースの名曲「Minute by Minute」と「Open Your Eyes」をマイケル・マクドナルドと共作し、ドゥービー・ブラザースのアルバムにも参加している。クラッキンは東海岸のウッドストックで活動を開始、西海岸ベイエリアに安住の地を求めて本拠地を移動、70年代に4枚のアルバムを残して解散する。この「Special Touch」は4作目で、彼らのラスト・アルバムになる。前作に続いてマイケル・オマーティアンがプロデュースを担当、彼はこの2年後にクリストファー・クロスのグラミー受賞作「南から来た男」を手がけた名匠だ。メロウ&ソウルとAORが混合した洗練された作品だったが、このアルバムを最後に残念ながら活動を停止する。
「Nobody Else」ロビー・ビュプリー作曲のAORナンバー、80年に彼のデビュー・アルバム「ふたりだけの夜」においてセルフ・カヴァーしている、このアルバム「ふたりだけの夜」もピーター・バネッタ&リック・チューダコフがプロデュースし、その最初のビッグ・ヒットが、ロビー・ビュプリーのデビュー曲「Steal Away」のヒットだった。。
「Don't Cha Love Me」軽快なグルーヴとAORを合わせたクラッキンらしい曲。
「Too Young」同じくファンキーとメロウを巧みに融合したクラッキンらしい曲。
Leslie Smith Heartache [CD]
レスリー・スミスは70年代には白人・黒人混成の大型グループであるクラッキンのリード・シンガーとして活躍し、クラッキンの解散後は売れっ子のセッション・シンガーとして様々なアーティストの活動をサポートしている。本作をプロデュースしたピーター・バネッタとリック・チューダコフもクラッキンの元メンバーで二人はクラッキンのリズム・セクションを担当し、グループの解散後はピーター・バネッタ&リック・チューダコフのプロデューサー・チームとして活躍し、ロビー・デュプリーやローレン・ウッド、テンプテーションズなどをヒットさせている。82年にリリースしたレスリー・スミスのソロ・デビュー・アルバム「ハートエイク」はデビュー作にして最高傑作と言われ、収録曲はブレンダ・ラッセルの名曲「It's Somethting」やマンハッタン・トランスファーでも知られたエアプレイの「Nothln' You Can Do About It」のカヴァー、作曲者のネッド・ドヒニー本人がアレンジやギターで参加した「Love's A Heartache(愛の傷跡)」この曲はアヴェレージ・ホワイト・バンドやロベン・フォードなどもカヴァーしている名曲、メリー・クレイトンとのデュエット・ナンバーでポップ&メロウな「Before The Night Is Over(夜の終わりに)」などの強力なナンバーを収録していて、AOR/ブラック・コンテンポラリーの名作と言える素晴らしい内容となっている。
「Nothin' You Can Do About It 」
「Love's A Heartache」
「Before The Night Is Over」
「It's Something」